死にたい人が死にたいを克服しようとしている記録

世界で一番自分のことをわかっていないのは自分

記録:6月30日 自殺未遂(処方薬の大量摂取による)

このブログを書く大きなきっかけとなった、決定的な自殺未遂について記録します。

そもそもなんで死にたくなったか、遡ると10年の歴史となりますので

今回は端的に記録として書き残します。

おいおい、自分の来歴を書いていこうと思います。

 

6月30日(木) 自殺未遂の日の昼

もともと悪化してきた体調により、通院している病院で診断書をもらい

(診断名:「適応障害の恐れ」)

就労が困難という内容のものを上司に手渡しました。

しかし事前に確認していた通り、契約である臨時職員(スタッフと呼びます)には

傷病による休職制度がないので、有給休暇を使うか退職して休むかの二択しかないと言われました。

25歳にしてすでに1度転職している私は、次はないと思っていたのもあり

この時有給を使って休みながら働くと答えました。

 

しかし心の中では「続けて死ぬか」「やめて死ぬか」の二択になりました。

仕事のストレスについては別で話します。

帰宅して家をキレイにすると、決意をして家を出ました。

数日前から調子が悪く、自殺場所を探して夜散歩に出掛け、ここなら死ねそうという

高さの場所を見つけていたためです。

 

私が自殺未遂をする時、

「少しでも怖いと思ったらやめよう」「まだ誰かに話したいと思ったらやめよう」

の2つを心に決めています。

(※ちなみに、死ねない行為に意味はないので自傷行為は一切しません)

 

6月30日(木) 23時ごろ 崖の上

崖の上で母に電話をかけました。少し前から調子が悪いことを心配してくれていたので

今日上司に話したことの結果を伝えるためです。

この時点で、私は「ありがとう」と「ごめんなさい」を伝えて電話を切り、

荷物を整えて下をよく確認し、背中を向けて頭から飛び降りるつもりでいました。

横浜の夜景が見えるキレイな場所でした。

天気は曇りだったと思います。都会の空は深夜でも明るいので本だって読めるくらいです。

 

上司に言われたことを伝え母がそれは厳しい状態だね、と言いました。

後ろで父も聞いていたと思います。

スピーカーホンで話していたので、静かな夜でしたが電車が通る音で外にいることを

気づかれてしまいました。

どこにいるの、と問いただされたので「崖の上にいる」と素直に答えました。

今すぐやめて家へ帰れと言われました。そこからの説得の言葉はよく覚えていません。

電話を切ってからもしばらく崖の上をうろうろしていたと思います。

 

でも、「思い切り」がなかったのでその時はやめました。

先ほど言ったように少しでも怖いと思った時はやめようと決めていたからです。

それでも死にたい気持ちは治らず、母との通話を切り、歩き続けました。

通行量の多い道路を眺めては「今ここに飛び出せば死ねる」と考え、

マンションを見上げては「この高さでは無理だ」と考え、

体が疲れてきてしまったので、家へ帰りました。

 

途中、知らない番号から0時も過ぎるのに2度電話がありました。

フリーダイヤルではないのでセールスではなさそうです。

この時は調べても出てこなかったので諦めました。

電話は2回、違う番号からかかってきていて、私は1回目の番号しか調べませんでした。

翌々日になってもう一度調べた時には2回目の番号で横浜市の消防局がヒットしました。

両親が「これは死ぬ」と判断したようです。

 

7月1日(金) 日付が変わった頃

もう一度かかってきた母からの電話に、家に着いてやれやれしたところで

出ました。家にいるとわかった母はそのまま寝なさいというようなことを言っていたと

思います。後ろでカーナビの音が聞こえました。

深夜に父が茨城から車を走らせてこっちへ向かってきていることがわかりました。

木曜日の夜です。明日には仕事もあるのに全く親不孝な娘は勝手に死のうとしているのです。

でもその時は都合がいい、と思いました。

自殺した死体を腐らずに早急に片付けてもらえると思ったからです。

 

家には一ヶ月もつように、と昨日診断書と一緒に処方された薬が大量にありました。

自殺未遂をして胃洗浄された女性の話などネットでよく聞くものでも、量は大体50とか70とか100くらいです。でも私の手元には200ありました。

これはいける、と思いました。

 

懸念事項といえば両親がこちらへ向かっていることくらいです。

ですがその時はもうなんでも構わなかったのでとにかく死のうと思いました。

急いでセパゾン200錠(以上。200あることしか確認しなかったのでそれ以上はありました)

メイラックス10から20錠(多分。どうせなら全部飲もうと思ったのでこれも確認せず。おそらく20錠程度)

マイスリー20から30錠(多分。2シートあったのは覚えています。3シートあったかはわからない)

合計で約250錠ほどの薬をシートから一つずつ出すのは骨が折れました。

全部カップに出し終わったらあとは飲み込むだけです。

自慢にならないですが、私は大きなカプセルでも市販のもの程度なら合わせて10錠は少ない水で一気に飲み下せます。普段よく噛まない癖があるので。

250くらいを飲み下すと、ベッドに万一のためのゴミ袋(下からなんか出るかもと思った)、

その上からバスタオル(部屋はキレイにしているので汚したくなかった)を引いて、

好きなアロマを炊き、一番好きなヒーリングミュージックをかけ、

吐いた時用にベッドの下に洗面器と水を用意して寝ました。

 

その後の記憶はありません。

ただ、両親が扉を叩くので掛け金を外しに行ったことと母が泣きながらベッドの横にいたことくらいは覚えています。

 

朝になって、目が覚めて母が尋ねてきました。目線の際にはゴミ箱に捨てた大量の錠剤のシートがありました。

カーテンは開いていて日は高くなっていたので、何故死んでいないのだろうと思いました。

何錠飲んだのか、と聞かれたので私は「4錠」と答えました。

普段1回に飲む量です。

「じゃあこれは今まで飲んだ分のゴミだね?」

と聞かれたのでそうだと答えました。

本当かと聞かれたので本当と答えました。胃洗浄されたくなかったからです。

この時、なんとなく死ねないのだと薄々悟りました。私の体には何も異変がなかったからです。

 

でも普段からゴミを定期的に捨て、部屋をキレイにしている自分が錠剤のゴミだけ

大量に残しておくのはおかしいし、すぐバレるだろうと思いました。

でも、まだ死ねるかもしれないと思って目を瞑りました。また少し寝ました。

 

 

結局、死ねませんでした。

死ねないどころか、私は薬を250錠飲んだのに痺れもめまいもなければしっかり立って話し、

物を食べたりできました。

午後になって死ねなかったことを悟った私は、自棄になっていました。

そして、母が職場に休むと電話を入れていましたが、無理やり仕事に行きました。

少しのふらつき以外特に変わった様子もなく仕事をしていたと思います。

半休扱いで有休消化は0.5ですみました。

 

誰も昨日250錠飲んで死のうとしたやつがピンピンして仕事に来てるとは思わないだろうな、とちょっと愉快な気持ちになったのを覚えています。

 

以上。

 

母がオーバードーズを行った私を見てかかりつけ医に相談し、緊急入院の手筈を整えていたことは別の記事に書きます。

とにかく、決定的な自殺未遂をしたはずなのに、何のダメージも負っていない自分は

薬では死ねない、という情報を得ました。

むしろなんかの治験とかに使えるレベルですよね。

アニメとかドラマとか映画とかで、薬盛って大人しくさせたはずなのに生きてて逆襲する、毒が効かないキャラいますよね。(味方だとわざと毒盛らせて弱ったふりして敵の懐に潜り込んで全滅させるタイプのやつ)

ああいうのできるかもしれないと思いました。

まあ、飲んだ薬が弱かったというのがオチだと思いますが。

笑えない伝説です。

いつか笑い話にできる日が来ますように。